【讃岐の庄松】香川県で生まれ育った浄土真宗の妙好人|讃岐寺ブログ

「讃岐の庄松」として超有名な香川県で生まれ育った人

香川県は真言宗の「八十八ヶ所霊場」が有名な土地ですが、香川県には全国的に有名な阿弥陀様の救いをよろこぶ生涯を送られた方がいらっしゃいます。

その方の名前を庄松(庄松さん)と申します。

庄松さんは文字の読み書きができない方でした。お金の勘定もできない方でありました。

そして、世間体を気にせずに思ったことは何でも話す方でしたので、周囲の方は変わり者だと思っていたそうであります。

しかし、多くの方が庄松さんと話すことを求めておられました。

と言いますのも、庄松さんは純粋に阿弥陀様の救いをよろこんでおられたので、その庄松さんのすがたを見て阿弥陀様の救いを私ごとと感じられる方が多かったのでありましょう。

庄松さんは浄土真宗では「妙好人」として全国的に有名です

庄松さんは、浄土真宗では「妙好人」と讃えられております。

「妙好人」という言葉は中国の善導大師という方が南無阿弥陀仏(阿弥陀様の救い)をよろこぶ方を讃えるために付けられた名称であります。

妙好人」は「妙なる好ましい人」と書くので、「他にないほど素晴らしい方」と言う意味でしょう。

私達は名誉や財産を求めて生きますが、いくら手に入れても「もっと欲しい、もっと欲しい」といつまでも欲望が尽きることはありません。

そんな私に、何にも変わることのできない功徳を与えてくれたのが阿弥陀様であり、私たちが南無阿弥陀仏と称えているのは、阿弥陀様のおはたらきが私たちに届いている証拠であります。

そんな南無阿弥陀仏をよろこぶ生涯を送られた方々を妙好人と讃えられたのであります。

庄松さんのエピソードを一つ紹介します

庄松さんが帰敬式(仏様の弟子として生きることを誓う式)に行った時のお話です。

庄松さんの帰敬式のエピソード

庄松さんが本山(京都の興正寺)へ初めて参った時、5、6人の同行に連れてお参りし、帰敬式を共に受けられました。

門主の本寂上人が剃刀を順番に行っていったのですが、庄松さんの順を終わらせて次の人へ移ろうとすると、本寂上人の法衣の袖を引き止め、

「兄貴、覚悟はよいか」

そのように申しました。

帰敬式が終わると、本寂上人は「今、我が衣を引っ張った同行を呼べ」と取り次ぎ役へ命令しました。

取り次ぎ役は、多くの同行の中に出てきて、「今、大善知識の法衣を引っ張りた同行はどこにおるか。御前へ出られよとの仰せじゃ」と言うと、庄松さんは平気な顔をしていたのですが、一緒に来た同行たちは、「ああ、すまんことをした。こんなことなら連れてこなければよかった。こんな人を残して帰ることもならず致し方ない。我々より御許しを願うより道はない」と思い、取り次ぎ役に「誠に恐れ入りますが、此の者はバカであります。一文二文の銭さえ数えも知らぬ者ゆえ、どうぞ御慈悲で御許しを願う」と言うと、「そうか」と引き返し、取り次ぎ役はその事をお伝えしたのですが、「いや、どうでもよい、一度ここへ連れてこいよ」と本寂上人は命令されました。

そして庄松さんは取り次ぎ役について本寂上人の前にやってきました。

そこで庄松さんは礼儀作法も知らないので、べったりあぐらをかいて座ると本寂上人から、「今、我が衣の袖を引っ張ったのはそなたであったか」

庄松「へぇ、おらであった」

本寂「何と思う心から引っ張った」

庄松「赤い衣を着ていても、赤い衣で地獄逃れることならぬで、後生の覚悟はようかと思うていうた」

本寂「さぁその心持ちが聞きたいため汝を呼んだ。敬ってくれる人は沢山あれど、後生の意見をしてくれるものは汝一人じゃ。よく意見してくれた。併し汝は信をいただいたか」

庄松「へぇ頂きました」

本寂「其の得られたすがたを一言もうせ」

庄松「なんともない」

本寂「それで後生の覚悟はよいか」

庄松「それは阿弥陀さまに聞いたら早うわかる。我の仕事じゃなし。我に聞いたとてわかるものか」

本寂上人は、庄松さんの答えを聞いて満足し、「弥陀を頼むというもそれより他はない。多くは我が機をたのみてならぬ。お前は正直な男じゃ。今日は兄弟の杯をするぞよ」と申され、その日に一緒に酒を飲み交わし、その日以来、庄松さんは本寂上人のことを「あにき、あにき」と慕われたそうであります。

帰敬式のエピソードに庄松さんの「性格」と「信仰告白」がこめられております

まず、京都の本山で最も偉い門主の袖を引っ張るのは、世間体を気にしない庄松さんの性格が出ております。

そして、「赤い衣で地獄逃れることならぬ」という言葉には「人間は本来地獄行き」という自身の煩悩の深さが出ております。

最後に、「阿弥陀さまに聞いたら早うわかる。我の仕事じゃなし」という言葉が大切です。

この言葉は、自分が救われるかどうかは阿弥陀様の仕事であって、私はただ任せるだけという浄土真宗の信心のすがたの表明です。

このように、庄松さんの言動は全体的に浄土真宗の信仰のすがたそのものを表明されております。

讃岐寺スタッフは庄松さんのお話もご希望があればどこでもいたしますのでお気軽にお申し付け下さい。